田沼意次が失脚した翌1787年5月、江戸・大坂など全国30余の主要都市で打ちこわしが続いておこった(天明の打ちこわし)。
なかでも江戸の打ちこわしは激しいもので、市中の米屋などが多数おそわれ、幕府に強い衝撃をあたえた。
こうしたなかで、11代将軍家斉の補佐として老中に就任したのが、白河藩主松平定信である。
定信は吉宗の政治を理想とする幕政の改革にさっそく着手し、田沼以来の政策を改め、飢饉で危機におちいった財政基盤を復旧し、ゆるんだ士風をひきしめて、幕府の権威を再建しようとこころみた。
定信による改革政治を寛政の改革と呼ぶ。
まず荒廃した農村を復興させるために、人口減少の激しい陸奥や北関東などで百姓の他国への出稼ぎを制限し、荒れた耕地を復旧させようと、全国で公金貸付をおこなった。
また飢饉にそなえて、各地に社倉・義倉をつくらせて米穀をたくわえさせた(囲米)。
寛政の改革のもう一つの柱は都市政策であった。なかでも打ちこわしにみまわれた江戸では、両替商を中心とする豪商が幕府に登用され、その力を利用して改革が進められた。
まず物価や米価の調節をはかって、その引下げを命じ、ついで正業を持たないものに資金をあたえて農村に帰ることを奨励した(旧里帰農令)。
さらに石川島に人足寄場をもうけ、無宿人を強制的に収容して治安対策とするとともに、技術をつけさせて職業をもたせようとこころみた。
また町々の町費を節約させて、その7割を積み立てさせ(七分積金)、江戸町会所をもうけ、これを運用して米・金をたくわえ、飢饉・災害時には困窮した貧民を救済する体制を整えた。
大名・旗本らには倹約を求め、困窮する旗本・御家人を救済するために、棄捐令をだして札差に貸金を放棄させた。
思想の面では朱子学を正学とし、1790年には、湯島聖堂の学問所で朱子学以外の講義や研究を禁じて(寛政異学の禁)、儒官には柴野栗山・尾藤二州・岡田寒泉を任じた(寛政の三博士)。
民間に対してはきびしい出版統制令をだし、政治への諷刺や批判をおさえ、風俗の刷新がはかられた。そして、林子平が『三国通覧図説』や『海国兵談』で海岸防備を説いたことを幕政への批判として弾圧し、風俗をみだすとして黄表紙や洒落本の出版を禁じたり、その出版元を処罰したりした。
寛政の改革は、一時的に幕政をひきしめ、幕府の権威を高めるかにみえたが、きびしい統制や倹約の強要は民衆の反発をうんだ。
さらに朝廷問題が発生した。1789年、朝廷は光格天皇の実父閑院宮典仁親王に、太上天皇の尊号を宣下したいと幕府に同意を求めたが、定信はこれを否定した。
武家伝奏らはふたたび尊号宣下を求めたが、定信は、本来幕府の側にたつべき武家伝奏らの公家を処分した。この一連の事件を「尊号一件」とよぶ。
この事件で対処をめぐる将軍家斉との対立もあって、定信は老中在職6年余で退陣に追い込まれた。
諸藩でも田畑の荒廃や租税収入減による財政危機は幕府と同様であった。このため幕府と前後して、藩主みずから指揮して綱紀をひきしめ、倹約や統制を強め、財政難を克服して藩権力の復興をめざす藩政改革が広く行われた。
これらの諸藩では、農村の復興がはかられ、特産物生産の奨励とともに藩の専売制が強化され、また藩校を設立して人材登用に力がそそがれ、熊本の細川重賢、米沢の上杉治憲、秋田の佐竹義和らは名君として評価されることになった。